バングラ・デシ・コンサート始末

 夢のような話は、いつの時代にもあり、それが実現すれば奇跡と呼ばれます。時が流れ、それは神話となりますが、悲しいかな、人間社会では時として、その裏側までもが見えてきたりもします。

 例えばそれは、1971年に開催された「バングラ・デシ救済コンサート」に見ることが出来ます。

 この催しはジョージ・ハリスンの呼びかけでニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われましたが、その出演メンバーはジョージを筆頭にエリック・クラプトン、リンゴ・スター、レオン・ラッセル、バッドフィンガー、クラウス・ブアマン、そしてボブ・ディランにラビ・シャンカール他多数という超豪華絢爛でした。しかも全員がノーギャラというチャリティ・イベントで、この興行の入場収入とライブレコーディングされたアルバムの売上げ、さらにフィルム化された映像からの収入はバングラ・デシ救済のために寄付されたという、大規模なチャリティ・コンサートとしては世界最初のものでした。

 もちろんこのライブ・アルバムは爆発的ヒットとなり、フィルムも劇場版に編集されて、これまた大ヒット、後にはビデオ化もされました。それが今回、リマスターされた新版としてDVD化され、おまけに既出アルバムもリニューアルされるということで、この機会に「バングラ・デシ・コンサート」の実相を綴ってみようと思います。

 さて発端は、ジョージ・ハリスンのシタールの師匠であるラビ・シャンカールが、東パキスタン=バングラ・デシの惨状をジョージに訴えたことから、イベントは動き出します。

 とにかく当時の東パキスタンは虐殺と貧困の真っ只中にありました。それはパキスタンという国がインドの独立にともなって誕生した分断国家だった為で、インド領を挟んで東と西に分かれているが故に、言語も生活習慣も違い、さらに政治権力は西側にあって、人口の多い東側が圧迫されるというのが実態でした。それは西側への反対勢力である東側の人口減少を狙った大虐殺につながり、一説では百万人を超す犠牲者が出ていたと言われています。もちろん東パキスタンでは独立運動が起って紛争は拡大し、それから逃れるために多くの難民がインドに流入しての大混乱に陥っていたのです。

 東パキスタン=ベンガル地方出身であったラビ・シャンカールは、当時、ヨーロッパで活動していましたが、その惨状に心を痛め、なんとか義捐金を送る等の直接的な支援をするべくチャリティ・コンサートを思い立ち、ちょうどその頃、一緒に仕事をする予定だったジョージに出演を打診します。するとジョージはその話を快諾したばかりでなく、自分の友人たちにも出てもらうように提案したのです。

 ちなみにこの頃、インド政府のバックアップでバングラ・デシ亡命政権が発足しており、その支部がニューヨークやロンドンにあったので、現地の悲惨な状況は日本以上に頻繁に報道されていたそうですが、どうやらジョージはそういう記事・報道にはほとんど接していなかったといわれています。ただ、ラビ・シャンカールはジョージにシタールを手ほどきした師匠であり、友人でもあったので、ジョージの行動は政治的な意図が無い、友情そのものだったと思います。

 こうしてジョージは救済チャリティ・コンサートを企画し、出演を仲間に呼びかけ、まず手始めとして、そのテーマ曲というべきシングル盤を発売します。それが――

Bangla Desh / Deep Blue (米・Apple 1836 / 英・Apple R-5912)
 発売日:米・1971年7月28日、英・1971年7月30日

side-A:Bangla Desh / バングラ・デシ:1971年7月10日、L.A.で録音
 George Harrison(vo,g) Leon Russel(p) Klaus Voorman(b) Jim Gordon(ds)
 Jim Horn(sax) with horns
 まさにジョージ節がたっぷり出た、やるせなく力強い名曲です。サウンド的には当時流行のスワンプ系で、泣きの入った節回しとスライド・ギターも魅力的ですが、プロデューサーのフィル・スペクターによって作られた例の「音の壁」的な太い音に圧倒されます。

 ところでこういう政治色の強い作品を出すと、いろいろと誤解されたりしますが、ジョージは歌の中で「友達が苦悩して相談してきたから、何とかしてやろうと思った、だから皆、手を貸して欲しい、バングラ・デシは地獄そのものだ、どうしてそうなったのか、私には分からないけれど、この惨状から顔を背けてはならない、バングラ・デシの人々を救おう、君の手を貸して欲しい……」云々と素直に、力強く歌っていて、好感が持てます。ちなみにアメリカではチャートの23位にランクされました。

side-B:Deep Blue / ディープ・ブルー:1970年5〜9月に録音
 ノスタルジー調のアコースティック曲で、小品ながらジョージの泣き節と生ギターの絡みが琴線に触れてきます。演奏メンバーは不詳ですが、どうやら名盤「オール・シングス・マスト・パス」のセッションで録音されたようです。ただし残念ながらこの曲はアルバム未収録で、おそらく未CD化のはずですので、今回のリニューアル盤に収録を熱望しています。

 さて、こうした動向は当時の日本にも伝えられましたが、現代と違ってその頃は海外情報が遅く、ジョージが大規模なコンサートを企画しているという話を私が最初に知ったのは、7月初旬のラジオ番組からでした。そして8月に入り、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」9月号でその模様が簡単にレポートされ、続く10月号ではグラビアでライブ写真が掲載されました。ちなみにこの時のタイトルは「東パキスタン救済チャリティ・コンサート」になっていましたが、そこにはエリック・クラプトンをバックに歌うジョージ、またボブ・ディランといっしょに歌うジョージとレオン・ラッセル、さらに同じステージに立つリンゴ・スターという、当時としては奇跡の一瞬が写しだされていたのです。特にボブ・ディランは約2年ぶりのステージであり、また当時の日本音楽界が空前のフォーク・ブームだったことから我国でも再注目されていた時期でしたので、その登場は大きな衝撃でした。

 ただし前述したチャリティ・シングル盤「バングラ・デシ」の日本発売は9月25日で、完全にタイミングが外れており、我国では特に大きなヒットにはなっていません。

 しかし、それにしてもこのジョージの行動力は早業! 何しろラビ・シャンカールから相談を受けたのが春、それからチャリティを企画して出演メンバー集め、レコーディング、そしてコンサートのリハーサルと宣伝等々があったわけですから、8月1日の本番までの集中力は驚異的です。もっともそれは、当時のマネージャーだった、あのアラン・クラインが主要スタッフとして裏まで仕切っていた為なのですが……。この辺りの事情は後述として、いよいよコンサートは開幕するのでした。

(2005.09.04 敬称略・続く)