バングラ・デシ・コンサート始末

 スワンプ・ロックの立役者であるレオン・ラッセルは、アメリカはオクラホマ州のロートンに生まれ、14歳の頃から本格的なバンド活動を始めたらしく、その本拠地がタルサという町でした。そしてこの当時、いっしょに演奏していた仲間がレオン・ラッセルの重要な人脈となるのですが、それはまだまだ後の話で、彼は程無く音楽産業の本場であるロスアンジェルスに出て、まだ18歳だった1960年頃にはバリバリのスタジオ・ミュージシャンとして活動しています。

 その頃の主な仕事はフィル・スペクターやテリー・メルチャー等々、最新ヒット曲を連発していたプロデューサー達のレコーディングをはじめ、メジャー、マイナーを問わず多くの芸能人&歌手の伴奏やデモ録音もこなしていたようです。そして、そういうところが認められ、1964年にはリバティ・レコードの主要スタッフとなるのです。

 ここでは同社がイチオシで売出しにかかっていたゲイリー・ルイス:Gary Lewis を担当し、まずそのデモ・テープ作りに、故郷のタルサからLAに進出していた昔のバンド仲間を集め、さらにバックバンドのプレイボーイズ:Playboys には、その中から後にエリック・クラプトンのバックバンドでリーダーを務めるベース・ギターのカール・レイドル:Carl Radle を正式メンバーに押込んでいます。ちなみに、このバンドはあくまでも有名喜劇役者であるジェリー・ルイスの息子であるゲイリーという二世スタアをバックアップするための存在なので、固定メンバーでは無く、巡業毎に流動的なラインナップだったようで、それが全員、レオン・ラッセルの故郷=タルサ出身者だったことも! しかしそれゆえに実力者が揃っており、普通はスタジオ・ミュージシャンに頼る実際のレコーディングでも、ある程度は自分達で演奏していたようです。

 で、レオン・ラッセルはそこで曲作りやアレンジ、レコーディングでの演奏を担当し、実質的なプロデューサーの役割を担っていたわけです。その素晴らしさはヒット曲の多さで証明されていますが、業界での評判はさらに大きく、生み出された多くの楽曲のミソは、他の大勢のミュージシャン達が盗用・転用しているほどです。それは我国でも同様で、例えば大滝詠一、山下達郎、佐野元春、さだまさし、杉真理……、際限がありません。もちろん前述のニューミュージック系ばかりではなく、昭和40年代歌謡曲でも、その味は限りなく付けられています。気になる皆様は、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのベスト盤を、ぜひともお聴き下さい。あれっ、これはどこかで聴いたことがあるっ、という曲ばかりだと、必ずや感銘を受けられるはずです。オススメは日本盤の「ザ・ベリー・ベスト・オブ(東芝TOCP-53380)」です。これにはきちんとオリジナル・シングル・バージョンが収録されています。

 そしてまた同じ頃、つまり1964年秋からABCテレビで放送開始された音楽番組「シンディング:Shindig!」のバック演奏も担当することになったレオン・ラッセルは、ここでグレン・キャンベル:Glen Campbell(g)、ラリー・ネクテル:Larry Knechtel(p) 等々、当時の一流スタジオ・ミュージャン達の纏め役としても活躍していますが、その流れの中から番組内で誕生したバンドには、デラニー・ブラムレット(vo,b,g)、ジェームス・バートン:James Burton(g)、グレン・ハーディン:Glen Hardin(p)、チャック・ブラックウェル:Chuck blackwell(ds)、ジョーイ・クーパー:Joey Cooper(g,vo) 等が参加、さらにビリー・プレストンまでもが出入りしていたのです。ちなみにレオン・ラッセルはピアノ、ギター、ドラムス、管楽器をこなすマルチ・プレイヤーです。

 で、このバンドは通称・シンドッグス:Shindogs と呼ばれ、シングル盤も発売して西海岸各地で営業をやっていたのですが、これが徐々にデラニー・ブラムレットを中心とするデラニー&フレンズに変化し、そこへR&Bが大好きなセッション・シンガーのボニー・リン:Bonnie Lynn が加わって、デラニー&ボニー&フレンズとなるのです。ちなみにデラニー&ボニーは知り合って1週間後に結婚しています。

 もちろんバンド=フレンズは固定メンバーではなく、初期に発売したシングル盤もスワンプ・ロックではありませんでしたが、1967年頃からはデラニー&ボニー本来の資質である黒人音楽嗜好に方向性をシフトし、レオン・ラッセルの肝いりによって、その手の演奏が得意なメンバーが徐々に参加していくのです。それは例えば、ドン・プレストン:Don Preston(g)、ボビー・キーズ:Bobby Keys(ts)、ジム・ホーン:Jim Horn(as)、ボビー・ホイットロック:Bobby Whitlock(key) 等々に加えて、前述のカール・レイドルも頻繁に参加していたようです。

 当然、この頃の録音も残されており、それは1971年に「Genesis / Delaney & Bonnie(GNP:GNPS2054)」というアルバムに纏められ、発売されましたが、まだまだ未完成の部分が多く、それゆえに興味深い内容になっています。ちなみにジェームス・バートンとグレン・D・ハーディンは、エルビス・プレスリーのバック・バンドへ流れていったのも要注意です。


 さて肝心のレオン・ラッセルは、この頃=1967年あたりからコマーシャルな仕事をセーブするようになり、自己名義の活動を本格的に始めています。そして一応、シングル盤も発売し、アルバム用のレコーディングも行われましたが、後に纏めて発売されたそれらの楽曲は、サイケ調ポップスの出来損ないという雰囲気だと、私には感じられました。もちろんヒットはしていません。またブルースやカントリー&ウエスタンがミックスされたような曲も残れさていますが、後年のような踏み込みはありません。

 しかし面倒を見ていたデラニー&ボニーとしての活動は、下積みながら安定感を増しており、ついに本格的なレコード・デビューの段取りとして、レオン・ラッセルは旧知のドン・ニックス:Don Nix を通じて、当時勢いのあったメンフィス・サウンドの老舗、スタックス・レコードとデラニー&ボニーを契約させるのです。

 メンフィス・サウンドとは、オーティス・レディングやサム&デイブ、ルーファス・トーマス等々、1960年代に大旋風を巻き起こしたソウル・ミュージックの総称で、その総本山がメンフィスにあるスタックス・レコードです。しかし、その経営者や中心メンバーは白人であり、ドン・ニックスもそのひとりでした。その彼がより大きな成功を求めてLAに進出した1965年頃から、いろいろと付き合いがあったのがレオン・ラッセルというわけで、白人ながら黒人顔負けのディープ・ソウルを得意とするデラニー&ボニーのデビューはスタックスしかないという戦略だったと思われます。

 そして1968年に、当地でオーティス・レディングのバックを務めていたブッカー・T&MG’s をバックに「Home(Stax:STS2026)」という素晴らしいアルバムを完成させ、さらにシングル盤として発売した「It's Been A Long Time Coming」もヒットさせるのですが、好事魔多し! その頃のアメリカは人種差別が激烈で、そのヒットに乗じた巡業ではデラニー&ボニーが白人だと分かって混乱、その上にキング牧師の暗殺事件も重なって、前述のアルバムは翌年まで発売延期になるのでした。

 しかし彼等はめげることなく巡業と自費レコーディングを続けます。ジョージ・ハリスンが彼等と接触したのは、おそらくこの時期で、完成しつつあった原盤を巡る争奪戦にはアップル・レコードも参戦、テスト盤まで作られましたが、結局それは1969年にエレクトラ・レコードとの契約で完成され、「オリジナル・デラニー&ボニー:The Original Delaney & Bonnie Accept No Substitute(Elektra:EKS74039)」として発売され、大評判をとるのです。そこにはもちろん、縁の下の力持ちである現場監督として、レオン・ラッセルの多大な貢献がありますし、演奏はジェリー・マギー:Jerry McGee(g)、ボビー・ホイットロック(key)、カール・レイドル(b)、ジム・ケルトナー:Jim Keltner(ds)、ボビー・キース(ts)、ジム・プライス:Jim Price(tp)、リタ・クーリッジ:Rita Coolidge(vo) 等々、巡業を共にしていたフレンズの面々でした。ブラインド・フェイスのアメリカ巡業の前座もこのメンバーが中心になっており、エリック・クラプトンが思わずそこに加わって楽しくワイワイと演奏してしまったという、それも充分納得出来る自然体の盛り上がりが記録された名盤です。

 そしてそれが新たな波紋と展開を呼ぶのでした。

(2005.10.28 敬称略・続く)