バングラ・デシ・コンサート始末

 さて、意気投合したレオン・ラッセルとデニー・コーデルは、早速「シェルター:Shelter」というレーベルを設立、社長にはデニー・コーデル、副社長にはレオン・ラッセルが就任し、配給はA&Mを通じてという、つまりそれはインディーズ・レーベルです。そしてその第1弾はレオン・ラッセルのソロ・アルバムと決定しますが、この製作は難航を極めました。

 レコーディングそのものは、デニー・コーデルと邂逅する以前から少しずつ行われていたらしいのですが、正式にスタートするにあたっての録音は、当時、誰よりもロックの音を作り出していたグリン・ジョンズ:Glyn Johns が担当することになりました。この頃の彼はご存知のように、ビートルズの「レット・イット・ビー」騒動の渦中にあり(「レット・イット・ビーの謎 / 第4回以降参照)、精神的にもスケジュール的にも、かなりキツイ状態だったと思われますが、レオン・ラッセル自身もデラニー&ボニー、ジョー・コッカー、ローリング・ストーズ等々との仕事に追われて身動きがとれない状況だったと思います。また、エリック・クラプトンのソロ・デビュー・アルバム製作の企画も持ち込まれていたのです。

 そこでイギリスで仕切りなおしのレコーディングを行うことに決定、その時期はデラニー&ボニー&フレンズの欧州巡業と重なり合う1969年秋でした。場所はもちろん、グリン・ジョンズの根城であるロンドンのオリンピック・スタジオです。そしてそこに集合したのが、エリック・クラプトン(g)、ジョージ・ハリスン(g)、リンゴ・スター(ds)、ローリング・ストーンズのビル・ワイマン(b)とチャーリー・ワッツ(ds)、スティーヴィー・ウィンウッド(key)、デラニー&ボニー等々の大物でした。

 しかしここで全てが完成したわけではなく、そこからアメリカに戻り、追加録音をして1970年に発売されたのが「レオン・ラッセル:Leon Russell(Shelter SW8901)」という不滅の名盤です。ただしそこには、上記スター・プレイヤー参加のクレジットは伏せられていました。しかしマスコミはちゃんと報道しています。ちなみにレベールのロゴマークはスーパーマンのロゴを改変したものでしたが、もちろん問題化したので、すぐに消されることになります。もちろんそれ故に、ここでのジャケ写もオリジナルのアメリカ盤でなく、イギリス盤をものを使用したわけです。

 そして肝心の内容も素晴らしく、レオン・ラッセルの濁声ボーカルと粘っこいノリ、シャープで泥臭い演奏、深いエモーション、そして安らぎと緊張感の巧みなミックス……♪ これこそスワンプ・ロックの完成形のひとつです。

 それは単に白人が黒人ゴスペルやR&Bをコピー演奏したということではなく、もうひとつ時代に適合した新しい感覚があるのです。その秘密はロック先進国・イギリスのトップ・ミュージシャン&スタッフの参加だと思います。これによって、アメリカでは、どこか偏見と鬱積によって素直に表現することが困難な黒人と白人の人種混合的な音楽が、ここに昇華されたような気がしています。そのあたりはアルバムのA面トップに収録された畢生の名曲「ソング・フォー・ユー」に顕著で、これは後にカーペンターズに取上げられて大ヒットしたように、曲そのものはユダヤ人モードのポピュラー感覚満点ですが、醸し出されるムードは黒っぽく、するとそれはモダン・ジャズ色かと言えば、そうではなく、ロック色が強いのです。

 また演奏そのものはスライド・ギターとかブルース色が強いのですが、ノリがブリティッシュ・ロックというか、黒人やアメリカの白人が演奏するものよりも8ビート感覚が強いのです。ちなみにアメリカのミュージャンはどこまで行っても自然にジャズの感覚が滲み出てきて、ビートがオフになる雰囲気が漂いますが、イギリスのミュージャンは、きっちりしたビートで作り上げられた演奏をする傾向があると思います。それがここでは良い方向に作用したのではないでしょうか。
つまりアメリカ人のアドリブ感覚と直の黒人感覚が、生硬なイギリス人ミュージシャンの特性と上手く混じりあって、成功作になったのだと思います。

 こうして自己のリーダー盤を作り上げつつ、レオン・ラッセルは次のプロジェクトの入ります。それは1970年3月からスタートしたジョー・コッカーのアメリカ巡業における音楽監督で、そのために集められたバック・バンドは当時のデラニー&ボニー&フレンズのメンバーを中心にした20人ほどの大所帯でした。そしてその盛り上がりをとらえたのが、3月27〜28日にニューヨークのファルモア・イーストで行われたステージを収録したライブ盤「マッド・ドックス&イングリッシュメン:Mad Dogs & Englishmen(A&M AMLS6002)」、そしてそれと同名の記録映画です。

 ここではレコードも熱いですが、映画はもっと熱くなります。ジョー・コッカーの熱血ボーカルと女性コーラス隊のコール&レスポンスはゴスペル色が強く、レオン・ラッセル以下の伴奏はロックもブルースもR&Bもゴッタ煮状態で、マグマの噴出の如し! もちろん演目は黒人ソウルの名曲やストーズのヒット曲等のカバー中心で、これは黒人ソウル・レビューをなぞったものですが、これを全く自分達のものにしている彼等の演奏は、まさに聴かずに、そして観ずに死ねるかの作品になっています。もっとも演じていた本人達にとって、この巡業は過酷なもので、なんと57日間で65回のステージ! そんな中で特に主役のジョー・コッカーは奇行の連続、ステージで泥酔してゲロを吐いたり、客席に向かって放尿するなど、興行師からは総スカン状態だったとか……。しかしこの巡業と映画によって、レオン・ラッセルの人気は急上昇するのでした。

 また同じ頃、エリック・クラプトンのソロ・アルバムも完成に近づいていました。それはイギリスで1969年末、つまりレオン・ラッセルのロンドンセッションと同時期にスタートしたもので、その本格的な仕上げが翌1970年1月からアメリカのLAで行われていたのです。助っ人のメンバーは、もちろんデラニー&ボニー&フレンズやレオン・ラッセル、プロデュースはデラニー・ブラムレットでしたから、これはもう、スワンプ・ロック剥き出しの作品でした。

 しかし実はこれにも、雛形となった作品があるのです。それが、ここまで度々名前が登場してきたデイブ・メイソンのソロ・アルバム「アローン・トゥギャザー:Alone Together(Harvest SHTC251)」です。これは彼が1969年にイギリスからアメリカに活動の拠点を移し、その年の夏〜秋にかけて製作していたもので、バックの演奏はレオン・ラッセル以下、デラニー&ボニー&フレンズの面々でした。そして発売されたのは1970年の初夏でしたが、すでに前年にはほとんど完成状態で、デラニー&ボニー&フレンズの巡業では、そこに収録された曲をステージで演じていますし、そのコピーテープをバンドのメンバーに聞かせていたようです。つまりそれはエリック・クラプトンがソロ・アルバムの録音に取り組んでいた頃で、クラプトンはこのアルバムにかなりの刺激を受けたと言われています。というか、かなり真似している部分があるのですが、それもまあ、バックの演奏陣がほとんど同じでは当たり前のことかもしれません。ですから、こうして完成、8月に発売された「エリック・クラプトン:Eric Clapton(Polydol 2383021)」とデイブ・メイソンの「アローン・トウギャザー」は双子のような関係なのです。そして当時は、そのどちらも同業者の高い評価とは裏腹に、一般聴衆にとってはあまり評価されないものでした。

 それは、特にエリック・クラプトンの場合、当時はまだギター・ヒーローというイメージが非常に強く、彼の慣れないボーカル主体の内容が肩透かしだったからです。しかしそれでも、シングルカットされた「アフター・ミッドナイト:After Midnight」がアメリカでヒット、そしてその作者であるJ・J・ケイル:J.J.Cale が一躍注目されるという、おまけがつきました。

 そのJ・J・ケイルはレオン・ラッセルとはオクラホマ時代のバンド仲間で、1964年頃にLAに出て活動していたのですが芽が出ず、この当時は故郷に帰っていたようですが、これをきっかけにシェルター・レコードと契約しています。

 そしてもうひとつ大きな出来事が、クラプトンの新バンド=デレク&ドミノズ:Derek & Dominos の結成です。メンバーはエリック・クラプトン(vo,g)、ボビー・ホイットロック(vo,key)、カール・レイドル(b)、ジム・ゴードン(ds)で、彼等はもちろんデラニー&ボニー&フレンズやジョー・コッカーを支えてきたリズム隊でしたが、ここまでの経緯では、レオン・ラッセルがジョー・コッカーのアメリカ巡業をサポートする段階で、そのバック・バンドをデラニー&ボニー&フレンズから引き抜く形で編成したために、当時、レオン・ラッセルとデラニー・ブラムレットの仲は気まずくなっていたと言われています。さらにその陰には、ロック史上に燦然と輝く超名盤の製作・誕生が絡んでいたのです。

 それがジョージ・ハリスンの畢生の大作「オール・シングス・マスト・パス:All Things Mast Pass(Apple STCH639)」でした。このアルバムは、ビートルズがポールの脱退声明によって事実上解散状態となった1970年5月から録音が開始され、そのプロデュースはフィル・スペクター、集められたメンバーはエリック・クラプトン(g)、リンゴ・スター(ds)、ボビー・ホイットロック(key)、カール・レイドル(b)、ジム・ゴードン(ds)、ビリー・プレストン(key)、ゲイリー・ブルッカー(key)、デイプ・メイソン(g)、アラン・ホワイト(ds)、ボビー・キーズ(ts)、ジム・プライス(tp)、クラウス・ブアマン(b)等々、これまで書いてきたスワンプ・ロック系のミュージシャンを中心に英国勢を適材適所に配置した豪華版でした。

 中でも前述したデレク&ドミノズ勢の活躍は目覚しく、実際のバンド結成はこの時のセッションがきっかけになっており、途中で自分達のレコーディングも行い、また6月14日には実際のライブもやっています。ただし、ここでの録音はデビュー・シングル盤「Tell The Truth c/w Roll It Over(Polydor2058057)」として発売されたものの、メンバーからのクレームで直後に回収されています(「レット・イット・ビーの謎 / 第13回参照)

 で、肝心のジョージ・ハリスンが作り出したサウンドは、自身の哲学的歌詞と泣き節メロディをフィル・スペクターの作り出す音の壁で囲い込み、そこへスワンプ・ロックのエキスを抽出して振りかけた様な仕上がりになっています。つまりリズムが黒っぽく、粘りもあって、それが全体の甘くとろけるような雰囲気のスパイスとなっているのです。そして英国ロック特有の作り物感覚のカッコ良さが、アメリカ音楽の本物志向と完全に溶け合った奇跡の一瞬として、見事に記録されているのです。それはアメリカ南部音楽が本来内包している独特の甘さと芳醇な香りの英国的解釈で、スワンプ・ロックのひとつの発展・完成形とも言えます。そしてこれは、アナログ盤3枚組という破格のセットで11月に発売され、周囲の心配を吹き飛ばして大ヒットするのでした。

 一方、エリック・クラプトンの新バンド=デレク&ドミノズは、前述のシングル盤にされた音源の仕上がりに失望し、よりハードな音を求めて本場アメリカの南部・マイアミのクライテリア・スタジオで仕切りなおしのレコーディングを敢行します。そしてそこで天才ギタリスト=デュアン・オールマン:Duane Allman と邂逅したクラプトンは、これも畢生の名作アルバム「いとしのレイラ:layla and Other Assorted Love Songs(Polydor2625005)」を完成させ、スワンプ・ロックのもうひとつの発展形であるサザン・ロックの道を切り開くのでした。

 それはボビー・ホイットロックの貢献が見逃せず、クラプトンの若干弱い声に絡みつくボーカルとうねりを秘めたオルガン&ピアノがゴスペル感覚満点で、クラプトンとデュアン・オールマンのギター対決に彩りを添えています。またカール・レイドルとジム・ゴードンのリズム隊も馬力と繊細さを併せ持った職人技を発揮して、クリーム以来のハードロック感覚を蘇えらせたのです。その内容は言わずもがな、永遠のラブソング「いとしのレイラ:Layal」を筆頭に、クラプトン本人の恋愛と失意のどん底を歌い上げたブルースの古典「愛の経験:Have You Ever Loved A Woman」、熱い心情を吐露した「恋は悲しきもの:Why Does Love Got To Be So Sad」等々、すべてが名演でした。

 しかし、1970年12月に発売されたこのアルバムも、今日では想像出来ないことですが、商業的に惨敗しています。もちろん評価も高く、彼等のライブも好評だったのですが、アルバム発売に先行して11月にシングルカットされた「いとしのレイラ:Layla c/w Bell Bottom Blues(Polydor 2058057)」さえも、この時点では全くヒットしていないのです。

 その上、翌1971年4月から始めた新曲のレコーディングの最中に、クラプトンとジム・ゴードンが大喧嘩の挙句にバンドは分裂! クラプトンは失意の中で自宅に引篭もり、クスリと酒に溺れていくのでした。

(2005.10.30 敬称略・続く)