ドグラ・マグラ

 およそミステリに興味を抱く者ならば、一度は必ず突き当たるのが「ドグラ・マグラ」という、異様なタイトルを持った作品ではないでしょうか。これは夢野久作によって昭和10年に発表された長篇で、探偵小説でありながら、当時から「読んだ者は一度は精神に異常をきたす」とまで言われる奇書であり、幻想味が強い反面、非常に理知的に組立てられた本格物でもあります。

 したがって、これを読むのにはかなりの努力が必要とされますが、しかし、ひとたび虜になると何処までもズブズブとのめり込んでしまう恐れも秘めた、当に「日本一幻魔怪奇の本格探偵小説」という当時の宣伝文句に偽りがありません。その物語とは――
     
 ブゥゥ〜ンという蜜蜂の唸るような音で覚醒した私は、木綿の着物を着せられ、コンクリートの壁に囲まれた小さな部屋にいることに気がつきますが、いっさいの記憶を失っており、現状を認識出来ません。そこへ馬面の大男が入ってきて、自分は九州帝国大学法医学担当の若林教授だと名乗り、ここがその精神科病棟であり、私は精神病科担当の正木教授の新学説に基づく実験材料であると教えられます。そして正木教授は1ヶ月前に自殺したので、自分=若林教授が後を引き継いでいるという事から、私の記憶を呼び戻すための実験が始められます。

 まず学生服を着せられた私は二十歳位の男子学生になっており、隣室で寝ている美少女に対面させられますが、彼女については何の記憶もありません。しかし、彼女は私に気がつくと「お兄様〜っ」と言いながら縋りついて来るのです。若林教授の説明によれば、彼女は私の従妹にして許婚だったのですが、半年前の挙式前夜に起こったある事件により、ここに収容されているというのですが……。

 次に正木教授の研究室に案内された私は、不気味な標本群の中から「ドグラ・マグラ」と題された綴じ原稿を発見します。その題名は長崎地方の方言で「幻魔術」という意味らしく、内容は同じ病院に収容されている若い大学生が正木教授と若林教授を登場人物にして書き上げた超常識的な科学物語だとか……。そしてその中には次のような事柄が含まれているらしいのです――

 ●「精神病院はこの世の生き地獄」という事実を含んだアホダラ経
 ●「世界の人間は一人残らず精神病者」を立証する科学者の談話記録
 ●進化に根ざした胎児の夢についての論文
 ●脳髄について演説した精神病患者の記録
 ●意味不明の遺書
 ●中国・唐時代に描かれた死美人の腐敗画像
 ●それに影響されたかのような現代の猟奇殺人事件の調査書類

 非常に興味をそそられながらも、私はそれを読むのが怖くなり、ふっと見上げた壁にある肖像写真に惹きつけられますが、そこに写っている禿げ頭の老紳士こそが正木教授なのでした。

 実は正木と若林は大学医学部の同期生であり、正木は驚異的な卒論「胎児の夢」によって賛否両論の騒ぎを起こしながらも最高の成績で卒業、そしてその直後に行方不明〜欧米放浪、8年後に帰国して精神病院における治療の内幕を暴露した「キチガイ地獄外道祭文」を配布、さらに「脳髄論」を発表して母校の教授に就任したそうです。そして狂人の解放治療という実験を推進しますが、自殺、そして事後を託されたのが若林教授であり、私と前述の美少女が実験材料だとか……。また残された資料には次の文献が――

 ●「キチガイ地獄外道祭文」
 ●「地上は狂人の解放治療場」という新聞談話
 ●「胎児の夢」
 ●「脳髄論」
 ●「空前絶後の遺言書」
 ●「心理遺伝論付録」

 何故か私は釣り込まれるようにそれらを読み続けたのですが、最後の文献は呉一郎(くれ・いちろう)が関わった殺人事件の顛末が記されていました。それは――

 大正13年3月、呉千世子が自宅で殺害されました。どうやら就寝中に絞殺されたらしく、さらに遺体は陵辱されており、事件発覚時に熟睡していた息子の一郎が重要参考人とされましたが、決定的な証拠が無く、事件は迷宮入りとなりました。しかし、若林教授は一郎が性的衝動と心理遺伝のために夢遊病の発作を起こし、母親を殺害したとの推論を組立てます。ただ、心理遺伝とはいっても、一郎は母親と二人暮しで父親については何も知らされておらず、母・千世子も一郎の父親の行方を捜していたというのですか……。

 そして大正15年4月、大学生になった一郎は従妹のモヨ子との挙式当日に彼女を殺害し、土蔵の中でその遺体を写生しているところを発見され、さらに叔母の八代子にも怪我を負わせるという事件を起こしてしまいます。しかし一郎にはその自覚が全く無くありません。どうやら直前に見ていた絵巻物に謎が隠されているらしく、それは死美人の遺体が腐敗・変容していく様が描かれており、呉家の先祖から伝えられたものでしたが、誰がそれを一郎に見せたのかは不明でした。

  ――と、私がここまで読んだとき正木教授が現れて、自分が自殺したというのは若林教授の作り話であり、実験と称して様々な文献を見せたりしたのは、私を呉一郎だと思い込ませるための策略だと言いつのります。そして全く訳がわからなくなった私が狂人解放治療場を眺めると、そこには自分とウリ二つの青年が! 正木教授はそれを私の離魂病のせいだと明かすのですが……。いったい私は呉一郎なのでしょうか、それとも……。
     
 物語はこの後、精神病研究のために呉家の血統に目を付けた正木と若林が、学術上のみならず、呉千世子をめぐっての恋愛闘争までもあったという仇敵であることが提示されるのですが、これまでのストーリー展開からも明らかなように、何処までも二重構造の繰り返しが執拗に綴られていきます。したがって、登場人物の私ばかりか読んでいる者でさえも、どちらが真実なのか、現実なのか、はたまた幻想なのか分らなくなるという凄さが最後まで持続していくのです。

 ただし、そこまでドツボに落とされるためには、前掲した「キチガイ地獄外道祭文」を筆頭とする恐ろしいまでの文章地獄を通過せねばなりません。ここが辛くて最後まで辿り着けない読者がほとんどだと思われます。しかしこの部分を読んでおかないと、後に作者によって仕掛けられた幻想感覚の度合いが全然違ってしまいます。6回もこの部分で挫折した私が言うのですから、間違いありません。したがってここは、どうしても突破していただきたい関門なのですが……。まあ、読めずに挫折したならば、そのままにして時をおき、最初から再挑戦するのが宜しかろうと思います。ちなみにこれは先輩からのアドバイスによるもので、実際、私はそうやって正解でした。

 ということで、「ドグラ・マグラ」はミステリに興味を抱かれる皆様にはぜひとも味わっていただきたい空恐ろしい程の作品なのですが、欠点は読み通すことが至難ということです。しかし嬉しいことに、この作品はかなり原作に忠実に映像化されております。それが次の映画です――

ドグラ・マグラ(昭和63年10月・活人堂シネマ)
 製作:活人堂シネマ
 監督:松本俊夫
 原作:夢野久作
 脚本:松本俊夫、大和屋竺
 美術:木村威夫、斉藤岩男
 出演:桂枝雀(正木教授)、室田日出男(若林教授)、松田洋治(私・呉一郎?)
    :小林かおり(呉千世子)、江波杏子(呉八代子)、三沢恵理(呉モヨ子)
    :森本レオ、渡辺文雄 他

 実は「ドグラ・マグラ」が映画化されると知ったとき、全く期待していませんでした。理由は言わずもがなですが、古来から有名ミステリの映画化で成功した例はあまり無く、特に原作に強烈な存在感がある場合ほど惨めな結果しか残せていないと感じていたからです。しかも今回は超理知的&幻想的な「ドグラ・マグラ」では……。というような思い込みから軽い気持ちで観に行って、仰天させられたのがこの作品でした。

 それはまず、物語そのもの、そして映像や演技者の雰囲気が非常に原作に忠実であったことでした。中でも桂枝雀が演じる正木教授は本当に原作どおりのイメージでしたし、若林教授役の室田日出男の抑えた演技もシブく、また、松田洋治のヘタウマ感覚が記憶喪失者の戸惑いを上手く表現していて、これも結果オーライでした。

 映像面では名匠・木村威夫を中心とした美術陣が本領を発揮して大正末期〜昭和初期の雰囲気を見事に再現しておりますし、幻想部分でのセットの色使いや衣装との兼合いも素晴らしく、松本監督の意図に見事に応えていると思います。

 そして、その松本監督の演出と脚本は原作のめくるめく部分を最高に上手く映像化しており、もちろんそれは照明、カメラワーク、編集等々の隅々にまで細心の手綱捌きが感じられます。特に原作に対しての忠実度という点では、一番難しいと思われる「キチガイ地獄外道祭文」の扱い方がとても上手く処理されております。

 サイケおやじ的な見方としては、モヨ子役の三沢恵理が見せるロリ体形のヌードが妙に艶めかしく、全く豊かさが感じられない彼女の乳は、その辺りの愛好者には堪らないものと推察しております。もちろん、さりげなく大人のお色気を醸し出す小林かおり、クール・ビューティな和服の着こなしを見せる江波杏子も素敵です。

 ということで、とにかくこれは絶対オススメの素晴らしいミステリ映画です。そして今年(平成16年)、ついに狂喜乱舞のDVD化と相成りました。本来、この作品はまず夢野久作が精魂を込めて書き上げた文章で地獄に落とされるのが本当のところでしょうが、しかしこの映画版「ドラグ・マグラ」の完成度の高さからみれば、映像で真実と虚構・幻想の世界を引きずり回されるのも、けっして邪道とは言えないと思うのですが……。皆様にはぜひとも一度はご覧いただきとうございます。

(2004.02.12掲載・敬称略)