The Beatles / Let It Be の謎 10

 1970年初頭、ビートルズは完全にバラバラになっていました。ジョンは前年から自己のバンド=プラスティック・オノ・バンドでの活動を本格化させていましたし、ポールは密かにソロ・アルバムを録音中、ジョージはジョンや他のミュージシャンとのセッション活動、さらにリンゴは映画出演とソロ・アルバムの録音といった具合です。

 そうした動きの中で宙に浮いていた1969年1月のセッション・テープは、フィル・スペクターというプロデューサーに編集が依頼されたというニュースが流れます。

 「フィル・スペクター? 高名なプロデューサーというが、それは誰?」というのが、当時の私の感想でした。今でこそ彼の名前は一応は良く知られておりますが、その頃の日本ではどのくらいの人が彼を認識していたのでしょうか? これは世界中のファンがそう思っていたのではないでしょうか? 確かに彼はその時点までに素晴らしい実績を残していましたが、実際、その頃は忘れられた存在ではなかったでしょうか……。少なくとも私の世代の音楽ファンは、ビートルズと関わったことでフィル・スペクターというプロデューサーを知ったのではないでしょうか。その辺りの事情からでしょう、当時のラジオの深夜放送ではフィル・スペクターの特集とかもやっていました。で、そこで流された曲は、なんとこれまでに聴いたことのあるものが沢山ありました。もっともそれは弘田三枝子が歌っていた「ビー・マイ・ベイビー」とかの世界でしたが……。まあ、そういった曲のオリジナル・バージョンを沢山聴けるようになったのは、やはりビートルズのおかげかもしれません。

 フィル・スペクター:Phil Spector はニューヨーク生まれのユダヤ人で、ロス育ち、少年時代にロックン・ロールの洗礼を受け、やがて自分でバンド活動を始めますが、彼はその頃から様々な録音方法に興味があったようです。やがて17歳の時、自主制作ながらシングル盤を発表します。そしてそのB面に収められていた「逢ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)」がラジオ局のDJの目にとまったことから1957年に全米チャート第1位の大ヒット、この曲はテディ・ベアーズ名義で、黒人ボーカル・グループの影響を強く受けたスロー・ナンバーですが、そのバックの演奏はエコーが大きくかかり、ダビングを繰返して録音されたことから音は劣悪になっていました。しかし切々とした乙女の心を聞かせるアネット・クレインバードの可憐な歌声とのミスマッチ感覚が、独特の世界を築いておりました。

 この大ヒットを足がかりにして彼は音楽業界に入り、紆余曲折はあったものの、当時のトップ・プロデューサーのひとりであったレスター・シルに弟子入りして研鑽を積み、さらに彼の推薦を受けて今度はニューヨークの音楽業界で裏方として働きながら人脈を作り、少しずつ現場での製作に携わっていきます。そして1961年、ロスに舞い戻った彼は、レスター・シルと共同で「フィレス」というレーベルを立ち上げ、1960年代半ばまで、数多くのヒット曲を作り上げていきますが、その特徴は所謂「ウォール・オブ・サウンド=音の壁」と呼ばれる音作りでした。もちろんこれは、前述した「逢ったとたんに一目惚れ」で聞かれたサウンドをより発展させ、完成形にしたものです。今日復刻されているそれらの音源を聴くと、エコーが強くて何だかモヤモヤしたものにしか聴こえませんが、当時は最高に迫力があるものとして玄人筋にも人気があり、後に大スターとなるビーチ・ボーイズやビートルズ等々、世界中に信奉者が出現してきます。しかし皮肉なことに、彼の全盛時代はビートルズの登場によって終焉を迎えます。この辺りの詳しい内容はいずれ特集として別項を設ける予定です。

 ところで、そのフィル・スペクターがどういう経緯でビートルズの「レット・イット・ビー」をプロデュースすることになったのかは、良く分かりません。ただ、1964年初頭にビートルズがアメリカへ行った際の飛行機の中で、彼等とフィル・スペクターが一緒に写っている写真が残されており、また当時から彼はビートルズと仕事をしたがっていたという事実もあるようです。その後の彼は1967年頃から事実上の引退状態になりますが、1969年に一時的にカムバックし、またイギリスでは人気が継続していたということと、ビートルズの経理担当であるアレン・クラインがフィル・スペクターと繋がりがあったことも関連しているのかも知れません。記録によれば、彼がビートルズ関係の録音に初めて携わったのは、1970年1月末に行われたジョンの3枚目のシングル盤A面曲「Instant Karma!」のプロデュースで、それはジョージの推薦だったと言われております。

 その頃のジョージはアメリカの南部系音楽、所謂スワンプ・ロックに傾倒しており、その周辺で活動していたドラマーのジム・ゴードンは、フィル・スペクターが1960年代にプロデュースしたセッションの常連スタッフだったことからの繋がりも無視出来ないところです。この辺りの複雑な人脈とドラマは壮大な美しき流れになりますので、これもいずれ取上げたいのですが……。

 で、その仕事に深い感銘を受けたジョンとジョージが例のマスター・テープのプロデュースを彼に依頼したというのが、現在の歴史です。その作業は3月23日〜4月2日の間に行われ、アルバム「レット・イット・ビー」はついに完成するのですが、その現場にはジョージと何故かアレン・クラインだけが立ち会っていたそうです。つまり現場の責任者としてはジョージ・マーティンもグリン・ジョンズも外されていたわけで、そのあたりが後々までも確執を生み出す要因になっていきます。

 以上のような新展開を経て、イギリスでは3月6日に新曲として「Let It Be / You Know My Name」のシングル盤が発売されます。これは海外では珍しいピクチャー・スリーブ、つまりアルバムのようにデザインされた袋に入れられて販売されましたが、そこで使われた写真は後に発売されるアルバム「レット・イット・ビー」と同じ雰囲気の、黒枠にメンバーが単独で写っているものが使われ、当時のビートルズの状況を如実に表しておりました。ちなみに当時の海外のシングル盤は発売会社の名前等がデザインされた紙の袋に入れられて売っているのが普通でした。その紙の袋の真ん中にレコードのレーベルと同じ大きさの丸い穴があって、そこからレコードを識別していたのです。

 肝心の中身の「Let It Be」はジョージ・マーティンが仕上げたステレオ・バージョンでしたが、何故か3月25日に発売された日本盤は、ジャケットにステレオ表記があるにもかかわらず、モノラル・バージョンでした。これは長い間謎とされてきましたが、実は当時、日本へのマスター・テープ・コピーの到着が遅れたために、会社側がオリジナル・シングル盤から独自にマスター・テープを起こし、ノイズが目立たないようにモノラル処理をしたのではないかという推測が、近年定着しております。そのために、ジャケットのステレオ表記はセカンド・プレスからは消されていきますが、本物のステレオ・バージョンのシングル盤が日本で発売されたのは1977年頃からでした。結局こうなったのも、発売を急ぐあまりのことで、つまりはビートルズの周辺がそれだけキナ臭くなっていたことの表れだったと思います。ちなみにイギリス盤、アメリカ盤ともにジャケットにはステレオの表記が最初からありませんし、もちろんアメリカ盤はステレオ・バージョンです。

 B面収録の「You Know My Name」はジョンが作った曲で1967年に録音し、その後いろいろと手を加えてようやくここに発表されたもので、当時はジョンが自分のバンド=プラスティック・オノ・バンド名義でリリースを目論んでいたものですが、ポールのボーカルが大きく出ている部分があるために、最終的にビートルズ名義になったものと思われます。元々の音源は現在「アンソロジー2」で聴くことが出来ますが、最初に世に出た時はその短縮版で、世界共通のモノラル・バージョンになっておりました。

 こうして「レット・イット・ビー」はようやく形あるものとしてファンの前に姿を現そうとしていたのですが、その直前になって最終的な大事件が勃発するのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション/マーク・ルウィソーン」

(2003.10.01 敬称略・続く)