日活ニューアクション!

 今日、そう定義される一連の作品群の端緒は、昭和43(1968)年1月に封切られた、渡哲也主演による「無頼より / 大幹部 (舛田利雄監督)」とされています。

 もちろん「日活ニューアクション」なんていう括り言葉は、リアルタイムで唱えられていたわけではないでしょう。では何故、ここから「ニュー」と区切られているのでしょうか?

 それは主役の存在意義や物語展開が、以前のアクション物と明らかに異なっているからでしょう。また作品によっては、脇役も含めた集団劇の趣さえあるのです。

 劇場用映画全盛期には、各社それぞれに特色があり、日活という会社では、アクション物がひとつの柱になっていました。その不良性をも含んだ娯楽性の強さ、無国籍なお洒落感覚、さらに絶対的な輝きを放つスタアの存在が、優れた監督&スタッフの手腕と一体となり、高度成長期の日本を活性化させていたのです。

 ところが、それは所詮、映画という架空の世界の出来事でしかありません。実社会での憂さを晴らす役割は充分に果していたのですが、やはり、もっと現実に共感出来る部分が求められていたのも、また事実でした。

 そこへ付け込んだというわけでも無いでしょうが、そういう部分にアピールして当りをとっていたのが、東映製作のヤクザ映画です。

 ご存知のように、それら一連の作品は鶴田浩二、高倉健という2大スタアをメインに、義理と人情、孝ならんと欲すれば忠ならず……、という日本人の琴線に触れる物語内容に加えて、テレビでは絶対に放送されないヤクザ社会を舞台にしていたことが、ヒットの要因でした。

 しかしこれは、ヤクザ映画というよりも、任侠映画でした。つまり弱気を助け強気を挫くという勧善懲悪に男の理想的な生き様を重ね合わせた、これも架空の世界です。したがって、その東映作品は「網走番外地」のように刑務所とシャバを行き来する変則アクション物という例外もありますが、大部分は時代背景を明治〜昭和初期に設定した、一種の時代劇になっていました。

 ヤクザ映画の魅力、それは実社会ではナアナアで済ませて抑えなければならない個人感情の爆発による、爽快感でしょう。

 例えば電車内のマナーとか交通ルールの遵守等々、実社会のちょっとしたルールを守らない、あるいは守れない者は、自分を含めて大勢いるわけですが、そんな事にイチイチ怒っていたら収まりがつかないとは分かっていても、一発殴ってやろうか! という瞬間が多々あるのが現実です。でも、それは出来やぁしないし、ましてや仕事においてスジが通らない話は、もう、日常茶飯事でしょう。

 ここで爆発出来たら、どんなに……!

 それをやってくれるのが、任侠映画の醍醐味です。

 まず、主人公は自分や自分の周囲で起る理不尽や非道、不条理に耐えるという男の美学を徹底的に見せます。けっして弱音は吐きません。そして耐えに耐えた最後に怒りを爆発させ、自分を捨てて相手を倒すのです。

 もちろん自分も傷つき、正義を遂行するには己も傷つかずにはいられないという、当にスジの通った生き様を見せてくれるのです。

 しかし現実には、そんな任侠道に生きるヤクザなんて居るはずが無いし、組織の中では生きるのに苦しく、下っ端はバカを見て、揉め事は金で解決するという汚さは、一般社会となんら変わりがありません。任侠映画を時代劇にしなければならない理由は、そこでしょう。

 で、そういう東映作品のヒットに刺激された他社は、もちろん独自色のヤクザ映画を作っていくのですが、日活では流れ者のアウトローや殺し屋を主人公にしたアクション物が既に確立されていましたから、今更、後追いの路線は出来るはずもなく、それでは現代物のヤクザ映画を作ろうとして出来上がったのが、前述の「無頼より / 大幹部」では無いでしょうか?

 また、その主役に抜擢された、渡哲也の役者としての資質が存分に発揮されたことも、特筆すべきでしょう。それまでの渡哲也は、昭和40年のニューフェイスとして期待されながら、その出演作品は石原裕次郎や小林旭がヒットさせていた往年の名作のリメイクが中心でしたから、本来の生真面目な雰囲気と軽いフィーリングが合致せず、ブレイクしないままに出演を重ねていたのです。

 さらに当時、急速に勢いを失いつつあった映画産業の中で、日活も業績の不振に喘ぎ、ヤクザ映画を作るにしても東映を見習え! と現場は上層部から指示されていたそうです。

 しかし、同じものは作れない! ならばっ!

 こうして作られていく日活製ヤクザ映画は、それまでの同社の作品に比べて主人公に颯爽としたところが無く、むしろ不器用でとっぽい雰囲気が強く出ています。また舞台が戦後〜現代に設定され、混乱と激動、高度成長と昭和元禄、その中で落ちこぼれ、居場所が無くて流されて行く若者の心情が、鋭く活写されているのです。

 もちろん、その中ではヒーローとヒロイン、善玉と悪玉がきちんと存在していますが、刹那的にドロドロした物語展開の中で、それは一層コントラストが強く演出されていると思います。つまりギリギリのクサイ芝居が最高にカッコイイという、日活伝統の素晴らしさ♪

 ただひとつ違うのが、アンチハッピーエンドということです。

 そのあたりは、各々の作品で触れていく所存ですが、この流れの中でもうひとつの路線となったのが、例えば「野良猫ロック」等のヒット作品で、それらは別に「青春篇」として纏めます。

 ということで、もちろん同時期の日活は、ここで「日活ニューアクション」として取上げる作品以外にも、多くのヤクザ映画を作っています。そしてそれが、義理と人情をメインとした任侠映画であることは、言うまでもありません。

 ちなみに私が初めて観た本格的なヤクザ映画が、日活の「大幹部 / ケリをつけろ (小澤啓一監督)」でした。これは渡哲也主演で昭和45(1970)年に封切られたもので、「野良猫ロック / セックスハンター」の併映作品でしたが、そこにはヤクザ映画のイメージとして私がぼんやりと抱いていた義理と人情よりも、ギリギリのハードボイルドというか、刹那的な物語として、「野良猫ロック」シリーズと共通の雰囲気が、確かに感じられたのです。



(2006.12.31 敬称略)