the rolling stones storye
転石音盤史

 ザ・ローリング・ストーンズとは何者でしょう?

 2006年5月現在、世界で一番有名な現役ロックバンドであることに間違いはありません。そしてファンは敬愛の念をこめて、ストーンズと彼等を呼ぶのです。

 その公式デビューは1963年ですが、もちろん、そこに至るまでには紆余曲折があり、一応のスタートは1961年、幼馴染のミック・ジャガー:Mick Jagger とキース・リチャーズ:Kieth Richards がロンドンのライブハウスでブライアン・ジョーンズ:Brian Jones の演奏に驚愕させられたあたりからと、ここではしておきます。

 当時のイギリスはエルビス・プレスリーによって巻き起こされたロックンロールの大嵐を受けて、そのルーツである黒人R&Bやブルースが若者達の間で人気沸騰しており、ミック・ジャガーもキース・リチャーズも、それぞれに音楽に対する情熱を燃やしていたわけですが、その彼等の前に現れたブライアン・ジョーンズは、黒人ブルース・フィーリングたっぷりのスライド・ギターを余裕で弾きこなす天才でした。ちなみにブライアン・ジョーンズは、そのステージではアレクシス・コーナー:Alexis Kroner というイギリス人ブルースマンのバンド=ブルース・インコーポレイテッド:Blues Incorporated の一員だったのです。

 そして実はミック・ジャガーも、素人ながらアレクシス・コーナーのお気に入りとして、時々はそのバンドで歌わせてもらっていたことから、いつしか3人は意気投合、共同生活を始め、そこに出入りする仲間達とバンドをスタートさせます。

 これが後のストーンズの原型というわけですが、そのメンバーは前述の3人に加えてイアン・スチュアート:Ian Stewart(p)、ディック・テイラー:Dick Taylor(b)、トニー・チャップマン:Tony Chapman(ds) 等々、様々な人脈から出入りが烈しかったようで、もちろん後に正式メンバーとなるビル・ワイマン:Bill Wyman やチャーリー・ワッツ:Charlie Watts もその中に入っていたのです。

 ちなみにバンド名のザ・ローリング・ストーンズとは、アメリカの偉大な黒人ブルースマンであるマディ・ウォーターズ:Muddy Waters の代表曲「Rolling Stone」にちなんで、ブライアン・ジョーンズが命名したものです。

 こうして1962年頃にはバンドとしての陣容も固まり、前述したアレクシス・コーナーの計らいでロンドンのマーキー・クラブという店の木曜日のレギュラー出演を獲得し、黒人ブルースやR&Bをルーツにした爆発的な演奏は忽ち評判を呼ぶのです。

 そして1963年に入るとライブの仕事も増え、その中のひとつ「クロウダディ・クラプ」のオーナーだったジョージオ・ゴメルスキー:Giorgio Gomelsky が彼等と契約し、ここでストーンズは正式にプロとなりました。同時にジョージオ・ゴメルスキーの宣伝活動もあって、ライブはいつも超満員、しかも時には暴動までも! その過激なステージはデビュー時からすでに完成されていたようです。

 さらにこの年の5月、当時ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインの下働きをしていたアンドルー・ルーグ・オールダム:Andrew Loog Oldham という20歳の青年がストーンズとの契約をジョージオ・ゴメルスキーから譲り受け、ついに彼等は正式にザ・ローリング・ストーンズとして初レコーディングを行うのです。ちなみにストーンズを所属させたレコード会社が、ビートルズを袖にしたことで歴史に汚点を残したデッカ・レコードというのも、絶妙でした。

 こうして本格的デビューを果したストーズのメンバーはミック・ジャガー(vo)、ブライアン・ジョーンズ(g)、キース・リチャーズ(g)、ビル・ワイマン(b)、チャーリー・ワッツ(ds) の5人組で、なんとイアン・スチュアート(p) はルックスが全くの善人ということでサポート・メンバーに格下げされますが、それもアンドルー・ルーグ・オールダムの戦略でした。つまり最初っから、ストーンズは「ワル」のイメージで売り出されたのです。

 確かにストーンズのメンバーはデビュー当時から不敵な面構えですし、その時21歳だったブライアン・ジョーンズは、すでに17歳の時に私生児の父親になっていたいう反逆児でした。しかし総じて育ちは悪くないのがメンバーの本質です。ブライアン・ジョーンズにしても父親は大企業の重役、母親はピアノ教師という裕福な家庭に育ち、幼少時からきちんとした教育を受けていますし、ミック・ジャガーも学生時代からエリートコースを歩み、特別奨学金まで受けていた優等生だったのです。それを不良やワルとして売り出そうとしたアンドルー・オールダムの発想は、おぼっちゃんイメージのビートルズへの対抗意識、それとひとえに観衆の暴力衝動を引き出してしまう、そのド迫力のステージにあったのだと思います。

 もちろんその戦略は大成功でした。デビュー曲こそ小ヒットでしたが、次々に発売されるレコードは徐々に大きなヒットとなり、1964年にはイギリスでの1stアルバムがチャート1位! またアメリカでの巡業やレコーディングを行うまでになるのでした。

 しかしそれは暴力的なステージや宣伝の力だけによるものではありません。ストーンズだけの魅力を持つ音楽的な力が、当然大きいのです。その要はやはりブライアン・ジョーンズで、黒人音楽ばかりでなく、クラシックやジャズ、民族音楽にまで精通し、様々な楽器を弾きこなすその才能は、ストーンズの多くのヒット曲に多大な貢献をしています。またキース・リチャーズにギターの特訓をしたり、グループの音楽的方向性を決めていたのも、ブライアン・ジョーンズでした。ストーンズのオリジナル曲は、そのほとんどがミック・ジャガーとキース・リチャーズの作詞・作曲でしたが、いざ、実際に演奏・録音する時には、ブライアン・ジョーンズがいなければ完成出来ないものばかりです。

 そのあたりについては本文で、追々に述べてまいりますが、こうして人気を確立していく彼等が世界的に大ブレイクしたのが、1965年に放った「サティスファクション」の大ヒットでした。そしてこれ以降、「1人ぼっちの世界」「涙あふれて」「19回目の神経衰弱」「黒くぬれ!」「夜をぶっとばせ!」等々、ヒット曲を連発していくのですが、そのライブは常に暴動とか、メンバーの麻薬常習と乱交というような、行き過ぎたマイナス・イメージの事件報道ばかりが先行していたのも、また事実でした。

 さらに常に付き纏ったのが、ビートルズとの比較です。もちろんストーンズがビートルズをライバル視して追いつけ、追い越せと頑張っていたのは事実でしたが、当時の音楽ファンは、ストーンズのそうした行動をビートルズの後追い、二番煎じとして客観視していたのも、厳しい現実です。特に日本ではビートルズが何でも一番、ストーンズはその他諸々のポップスバンドのひとつという扱いだったのです。

 こういう状況は音楽面では決定的で、それについても、追々、本文で述べてまいりますが、それに一番焦りを感じていたのはブライアン・ジョーンズだったと思います。自身が曲を作れない、あるいは作らないこともあって、ストーンズのサウンド・プロデュースやライブでは前面に立ち、また対外的には不良とワルのイメージの中心として、実際にグループを取巻く様々な事件での注目度は非常なものがありました。

 そしてブライアン・ジョーンズは、ついに麻薬や事件等によって演奏活動が出来なくなり、1969年6月、リーダーでありながらグループを追放されるのです。そして悲劇的な死……。

 一方、ブライアン・ジョーンズをクビにしたものの、それでは実際にライブが出来ないストーンズが代わりに入れたギタリストが、ミック・テイラー:Mick Tayloy でした。そのお披露目が今や歴史となった1969年7月5日のハイド・パーク・コンサートでしたが、何とその2日前にブライアン・ジョーンズが変死! 急遽、その追悼コンサートに変更されるという騒ぎは、永遠に記憶されるストーン史です。

 そのミック・テイラーは当時20歳の美青年でしたが、ギターの腕前は超一流で、その後在籍した5年間こそ、ストーンズのライブ最強時代でした。しかもリズムギターが弾けなかったというか、得意ではなかったミック・テイラーの存在ゆえに、キース・リチャーズのヘタウマギターとビル・ワイマン&チャーリー・ワッツを軸としたストーンズのリズムへのアプローチが大きく変化し、ここにストーンズだけのロックが完成していくのです。

 そこには当時流行の様々な音楽形態が取り込まれています。しかし変わらぬ黒人音楽への憧憬は普遍でした。

 前述したように、常にビートルズと比較され続けた彼等ですが、ビートルズが黒人音楽をベースとしながらも、クラシックもポビュラー音楽も同等の地平でそこに混ぜ合わせていたのに対し、ストーンズは様々な別種の音楽を黒人音楽というフィルターを通過させて再構築していたように思います。

 またストーンズという生き方・生き様は、人生そのものにダイレクトに繋がる何かが、ビートルズ以上にあるような……。私には、そう思えます。

 さて、そのストーンズが我国で本当に認識されたのが、1973年の初来日中止騒動でした。なんとチケットまで販売しておきながら、メンバーの麻薬問題で入国禁止! このあたりの事件は当時のマスコミでも連日の大報道でした。そして序文でも述べたような理由から、既にストーンズ命状態だった高校生の私は、実際にチケットも入手していましたから、もう混乱と怒り頂点! 後にこの状況を土台にした「太陽を盗んだ男」という邦画の傑作も生まれるのですが、よく当時、暴動が起きなかったものだと、本当に思います。このあたりの経緯や騒ぎについては、実際に体験したものの視点も含めて、いずれ別項を設けて書き残したいと思います。

 それにしても当時、お金が無かったとはいえ、2800円のチケットを払い戻してしまったことは、今になっても尚、後悔しています。それがコレクターズ・アイテムとして、現在では法外な値段がついていることよりも、青春時代の思い出を自ら捨ててしまったかのような、喪失感が……。

 さてストーンズの1970年代はライブも最高! 発売するアルバムも充実という本当の全盛期でしたが、1974年末にミック・テイラーが突如脱退! 後任ギタリストも決定出来ないまま、マネージメントが先行して翌年も巡業は行われるのですが、そこでサポート・メンバーだったロン・ウッド:Ron Wood が、そのままメンバーに横滑りしていきます。そしてここからは安定期というか、華やかなステージ、裏切りの無いアルバム製作、そしてキース・リチャーズの麻薬問題からグループ全体としてのドラッグからの脱却というところが、新たな展開でした。

 しかしグループ内部はゴタゴタが続き、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの確執、ビル・ワイマンの脱退等々を経て、ストーンズはそれでも活動を続け、結果的に現在に至っています。幻だった日本公演も1990年には実現し、それは新たなファンを獲得するほどのイベントでしたが、率直に言って、このあたりからストーンズは「伝統芸能」になったと思います。

 それは誰の真似でもないストーンズ流のロックが確立された証ではありますが、アルバムは毎度お馴染みの黄金律で製作、ライブではほとんど新曲を演奏せずに旧作のヒットパードに終始、それでもファンは大満足という、全く彼等のテーマ「サティスファクション」では無い光景です。

 特に近年はその傾向がますます強くなり、個人的にはビル・ワイマンが脱退した時をもって、リアル・ローリング・ストーンズは終わったとさえ思っています。

 しかしそれでも「ストーンズ命」に変わりはありません。

 いろいろと気が多い私は、音楽だけでもアチコチつまみ食いばかりしていますが、結局、ストーンズに戻ってきます。そして自分の中では、いつまでもストーンズといっしょに転がり続けたいと願っています。拙文もその表れと解釈していただければ、幸いです。

(2006.05.18 敬称略)