東映エロ映画小史


 1970年代の日本映画界は「日活ロマンポルノ」の時代だと言われております。確かに昭和46(1971)年8月に日活が映画制作を一時中止し、それから3ヶ月後に公開した「色暦大奥秘話」「団地妻・昼下がりの情事」という2本を皮きりに生み出された夥しい数の作品群は単にエロ映画・成人映画という範疇を超え、今ではひとつの時代を象徴するものになっていると思います。

 しかし、当時作られていたのは「日活ロマンポルノ」だけではけっして無く、それ以上に膨大な数のエロ映画・成人映画が公開されていたのでした。そしてもちろんそれを最初に作り出したのも日活ではありません。ブルーフィルムを別とすれば日本映画史での「ピンク映画」第1号は昭和37(1962)年に公開された小林悟監督・香取環主演による大蔵映画の「肉体の市場」とされており、大当りもしない代わりに大コケもしないので安定した収益を製作サイドにもたらすというところに目を付けたのが大手の東映でした。

 昭和40年代初頭の東映は任侠映画で路線を確立しておりましたが、当時の映画興行は所謂プログラム・ピクチャー方式、つまりメインの作品と添物の2本立てが一般的でしたので、必然的にB面作品にもそれなりに力を入れていました。例えば大ヒット・シリーズとなった「網走番外地」にしても、1作目は女が出ないというところからモノクロ作品として添物扱いだったのです。

 しかし、そういう硬いものばかりでは集客も伸び悩むということで、やはりエロスを盛り込んだ作品をという発想は不思議ではありません。そして生み出されていったその手の作品群こそ、昭和40〜50年代の日本映画界を彩っていたもうひとつの裏の華ではなかったかと思います。

 東映でのその始まりは、個人的には昭和42(1967)年に公開された中島貞夫監督による「大奥(秘)物語」だと思いますが、そのヒット後に次々に作られていく作品群には次第にはっきりとした色合いが付けられていきます。それはズバリ「どぎつい」ということで、つまりエロスがあるのは当然ですが、それに付随して暴力・猟奇・ナンセンス・江戸川乱歩の言うところである「奇妙な味」等々が強調されたエロ・グロ趣味が濃厚に感じられるのです。そうした味付けになっているのはそれらの作品が当時の東映の興行形態としてメインになっていた「任侠」あるいは「実録」というやくざ映画の添え物として製作されていたからで、その味が強すぎる作品は成人指定として実際には深夜興行・オールナイト興行、あるいは下番館で公開されておりました。

 で、その「どぎつい」ものに走るきっかけは、当時の東映京都撮影所の所長・岡田茂の英断です。彼はテレビの台頭により翳りが見え始めた映画界の中で、テレビでは見ることが出来ない世界を映画で提供することによって、経営の安定化を図っていました。東映を時代劇から任侠路線に転換させたのもそのひとつの表れで、これは大成功します。そして次の目論みがピンク映画・エロ映画の導入でした。

 実は東映はこれまでにも前述した「大奥(秘)物語」他、「続・大奥(秘)物語」「くノ一忍法」等々のエロ味が強い時代劇を製作していたのですが、テレビでは見ることが出来ない世界=豪華絢爛ということで、この路線は継承することになり、今回はさらにエグミの強い、本格的なエロ時代劇を目指すことになります。その実現のために動いたのが、岡田茂の片腕と言われていたプロデューサーの天尾完次でした。

 そして早速製作されたのが、エロ時代劇といえばこの人という山田風太郎の原作による「忍びの卍(昭和43年)」です。監督は鈴木則文、出演女優陣も桜町弘子、真理明美桑原幸子等々、美味しいメンバーを揃えました。しかし、肝心の女優達の脱ぎっぷりがイマイチ、演出も中途半端という、卵と鶏の関係にも似た雰囲気で興行的にも失敗してしまいます。

 そこで天尾完次の次なる行動は、当時のピンク女優の総動員という、基本を大切にした仕掛けでした。そして作られた石井輝男監督による「徳川女系図(昭和43年)」には正統派時代劇女優に混じって三原葉子谷ナオミ、辰巳典子、賀川雪絵、三島ゆり子、祝真理、内田高子等々、ここに書ききれない程、キラ星のピンク・スターが華を競う豪華版となり、もちろん石井監督の演出も冴えて大ヒットになりました。

 この成功は豪華女優陣の出演を最大限に活かした、石井監督の当時としては顰蹙物の演出がポイントでした。美味しい場面はお約束の濡場、褌一丁の女相撲、入浴、レズ、リンチ等々これまでのエロ映画でも取上げられていたものですが、ご存知のように東映のライティングは隅々まで光がまわっている明るさが特徴ですから、そういうものが何の隠しようも無くあからさまに描写されているのです。そして石井監督の演出には遠慮がありません。

 当然、こういう露骨なやり方は映画評論家や女性団体から酷評や抗議を受けますが、会社側は大ヒットに大喜び、これ以降公開される作品は「刺激路線・異常性愛路線」と呼ばれるほど、どぎつい内容になって行きます。ただし時代劇は制作費が嵩むことから当然現代劇も製作され、そこで取上げられたテーマが「温泉」「芸者」「スケバン」「猟奇事件」等々です。ちなみにそれらの作品には岡田茂自らが捻り出していたというタイトルが付けられており、例えば「みみず芸者」とか「色情大名」、「恐怖女子高校」等々、いずれも観客のエロ心をそそるものばかりでした。そしてそこには「暴力」「刺青」「実録」という当時の東映がお得意だった味付けが施され、しかもそれらの作品が必ずしも成人指定で無いのですから、青春真っ盛りのギラギラ青少年達には大きなプレゼントでした。

 また現場では石井監督に負けじと鈴木則文監督が一方の雄になる大活躍、池玲子を発見・育て上げ、そのデビューに際しては「ポルノ」という造語まで生み出しました。そしてそれに続き、山口和彦、野田幸男、内藤誠、そして伊藤俊也といった俊英たちがグリグリした演出を手がけた強烈な作品が作られていくのでした。

 しかしその現場もまたこういう路線を抵抗無く受け入れていたわけではなく、昭和44(1969)年の京都撮影所では助監督一同が組合をバックに批判声明文を出して石井監督や会社の方針に反抗、哀れ石井監督は段取りいっさいを自分でやっていた時期もあったとか……。ただこうした事件そのものが作品の強烈さをアピールする宣伝にも繋がったのは皮肉でした。また当時はまだ東京撮影所の助監督だった伊藤俊也がこういう京都撮影所の状況を痛烈に批判したりという展開もあり、流石に後年「さそり」の超大ヒットを出す一味違った反骨精神を見せてくれました。

 こうして東映はエロ映画路線を軌道に乗せ、所謂「東映ポルノ路線」を確立、一般作品にもその味を施し、大信田礼子、梶芽衣子、池玲子、杉本美樹、多岐川裕美、山内えみこ等々をスターに育てますが、いずれもすぐに脱がない宣言、さらに昭和46(1971)年から日活が「ロマンポルノ」路線で本格的にエロ映画制作に参入したことから、ついに昭和49(1974)年春には、岡田茂自らが「ストリップ映画はキワモノ」という製作中止宣言を出すに到ります。

 なにしろライバルの日活はこの当時、小川節子、白川和子、田中真理中川梨絵、片桐夕子等々の人気スターを擁し、当局に摘発されるほど強烈な新作を2週間毎に2本ずつ提供、しかもそこに独立系からの買取作品を併せて3本立て興行をしていたのです。東映も天尾完次と鈴木則文監督を東京撮影所に移動させて必死の抵抗を試みたのですが……。

 ところが皮肉なことには、この撤退宣言と前後して洋ピンの「エマニエル夫人」が女性客をも動員する大ヒット、しかも配給元が弱小の日本ヘラルドであったことから、大手としても無視することが出来ず、翌年に日活が「東京エマニエル夫人(昭和50年・加藤彰監督)」を製作してヒットを飛ばせば、東映も負けじと再びエロ映画制作を再開させます。この時の呼び名は「東映ニュー・ポルノ」あるいは「ラブ・ポルノ」、関本郁夫や牧口雄二等々の生抜き監督の他に田中登や向井寛といった外部からの招聘組も活躍していきます。

 ただしこの時期は日本映画が完全に斜陽、したがって制作費も激減という中で特に手腕を発揮したのが向井寛でした。彼は元々はドキュメント系作品から演出を始め、産業映画賞を獲得したり、警視庁推薦作品等も手掛けていたのですが、昭和40年頃からそうしたドキュメント手法を用いた成人映画でヒットを連発していた実績があり、すぐさま撮ったのが、前述した「東京エマニエル夫人」の主演女優=田口久美を臆面も無く起用した「東京ディープスロート夫人(昭和50年)」です。ちなみにこの頃には「新日本エマニエル夫人(大蔵映画・渡辺譲監督)」というのもありました。

 で、「東京ディープ・スロート夫人」を当てたことから、この当時、成人作品は3本立てという日活の興行形態を取り入れていた東映は、彼に添物作品のプロデュースを任せることになります。

 ここでの彼の仕事は、まず添物として輸入する洋画ポルノの選択・編集で、これは当局と映倫の厳しい締め付けから非常に大変だったようです。またそれと平行して国内独立系の作品もプロデュース、ここでは自らユニバース=獅子プロを設立して自らの作品を撮る一方、山本晋也、深尾道典、稲尾実等々を監督に起用した「お笑いポルノ」作品を制作、また当時は現場での下っ端だった片岡修三や滝田洋二郎を育て上げたのは、皆様ご存知のとおりです。ちなみに向井寛は女優では白川和子、宮下順子等々をスカウトした実績もあり、人材育成の手腕は本当に凄いものがあると思います。

 その方面の仕事は昭和53(1978)年に東映セントラルの設立に参加してからも続き、山本晋也監督には「下落合焼き鳥ムービー」という一般作品を撮らせる等の他、現在、Vシネマやテレビの製作現場で活躍中の若手育成にも力を注いでいきます。もちろん本人自身の作品も撮り続けており、もちろんVシネマでの活動も行っております。

 一方、天尾完次はその後、「新幹線大爆破(昭和50年)」や鈴木則文監督・菅原文太主演による「トラック野郎(昭和51〜54年)」シリーズ等々の大ヒット作を手掛けており、大作と添物作品の格差は広がるばかりになりましたが、一時は爆発的人気があった東映Vシネマの種を蒔いたという実績も無視出来ないものがあります。

 現在の日本映画界は撮影所システムも崩壊、低予算でなんとか持ちこたえている状況ですが、その中で小粒ながらキラリと光る作品を生み出している監督・スタッフがピンク映画・成人映画と何らかの関わりの中から育てられた事実を鑑みれば、かつて存在した東映ポルノ作品にはまた別の感慨が湧いてまいります。

 ということで、これから折を見て東映のその手の作品をご紹介していこうと目論んでおりますが、その際にこの拙文を思い出していただければ幸いです。

(2003.10.10掲載・敬称略)